ドラガン・ストイコビッチという奇跡/名古屋グランパスの優勝に寄せて


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僕が初めてサッカーを観はじめた頃、最初に買った本がある。

正式なタイトルは忘れてしまったけれど、『世界のサッカー選手 100傑』といった内容のムックだった。

当時の現役サッカー選手の中から選りすぐりのスーパースターたちを紹介するこの本は、その筆頭をディエゴ・マラドーナが飾り、マルコ・ファンバステンやルート・フリットなどの、時代を牽引した世界的な名手たちが紙面を彩っていた。

当時はまだサッカー観戦のビギナーで、選手といえばマラドーナとごく一部の選手くらいしか知らなかった僕にとってこの本は、世界のサッカー選手たちの姿を目に焼き付けることのできた貴重な資料であって、それからしばらくの間、僕にとっての『世界のサッカー選手の載った教科書』になったのである。

そしてその 100人のスーパースターたちの中に、ドラガン・ストイコビッチの名前があった。

1994年に “ピクシー” ことストイコビッチが来日した時、彼が世界的に偉大なプレイヤーであることを、僕はそんないきさつから知っていた。

しかし、当時のJリーグは空前絶後の『大黄金狂時代』。

ジーコやリトバルスキー、レオナルドなどの世界的名手が各チームで活躍していて、名古屋グランパスでも既に、先輩大物プレイヤーとしてワールドカップ得点王のゲーリー・リネカーがプレーしていた。

そんな時代にシーズン途中から加入したストイコビッチは、必ずしも大きな注目を集めて入団した選手ではなかったのである。

そして実際に、初年度はサッカー面でも生活面でも日本の文化に戸惑い、シーズンを通じて活躍を見せることはできなかった。

しかし翌年、現在イングランドのアーセナルで指揮をとる名将アーセン・ベンゲルが名古屋の監督に就任すると、ストイコビッチはその持てる才能を一気に開花させることになる。

ベンゲルが高度な組織力を植えつけたチームの中で、前線のフリーマンとして超絶テクニックを連発し始めたピクシー。

その蘇ったピクシーに牽引されて、チームはリーグ戦2位、そして天皇杯優勝と、前年度に 12チーム中の 10位であったことが嘘かのような快進撃を見せる。

そしてリーグタイトルに手が届かなかったにも関わらず、ドラガン・ストイコビッチはこの年、Jリーグの年間最優秀選手賞を受賞するのだった。

名古屋の伝説となった “ピクシー”、ドラガン・ストイコビッチ

“ピクシー” ドラガン・ストイコビッチは 2001年に 36歳で引退するまで、結局Jリーグで7年間プレーすることになる。

Jリーグ史上最高の選手と言ってもいいスーパースターにして、名古屋グランパスの “レジェンド”。

そのピクシーが監督として復帰してから丸3年。

ついにカリスマとともに、名古屋グランパスはチーム史上初のリーグチャンピオンの座を手に入れた。

エースとして2回の天皇杯優勝をもたらし、7年に渡って美しいプレーの数々でサポーターを魅了して、さらには監督としてもチームを初のチャンピオンへと導いた男。

ドラガン・ストイコビッチの名前は、名古屋グランパスというクラブが存在し続ける限り、今後も永久に失われることはないだろう。

スポーツ界には『名選手、名監督にあらず』という格言があるけれども、ピクシーは見事にその定説を覆してみせたことになる。

稀代の名選手にして、チーム史上最高の監督となった男。

ドラガン・ストイコビッチとは、いったいどのような人物なのだろうか。

ユーゴスラビアフットボール界を描く『ユーゴスラビア三部作』

僕が数年前に出会った、ある3冊のサッカー・ノンフィクションがある。

その著者の名前は木村元彦。

あのベストセラーになった名著、『オシムの言葉』を書き上げたライターである。

弱小チームだったジェフ市原を1年で優勝争いをする強豪にまで鍛え上げ、一躍時の人となった監督イビチャ・オシム。

そのオシムという人物を通じて、背景にある旧ユーゴスラビアの紛争の歴史を描いた「オシムの言葉」は非常に読み応えのある名編だったけれども、実はこの『オシムの言葉』には、これと合わせて木村元彦の『旧ユーゴスラビア三部作』と呼ばれる姉妹編が存在するのをご存知だろうか。

その2冊とは、ともに旧ユーゴスラビア紛争と、それに翻弄される旧ユーゴのフットボーラーたちの姿を描いたノンフィクション巨編、『誇り』と『悪者見参』。

そしてその2冊でともに主役級の扱いで登場するのが、”ピクシー” ことドラガン・ストイコビッチなのである。

これらの本の中で語られるエピソードから見えてくる、Jリーグのピッチで舞う姿からだけでは窺い知ることのできなかった、ドラガン・ストイコビッチという人物の横顔をここで簡単に紹介したい。

ストイコビッチ、その天才の肖像

ドラガン・ストイコビッチは 1965年、旧ユーゴスラビア、現在はセルビア共和国の第2の都市・ニシュで生まれた。

スポーツ万能だった少年時代、サッカー以上に夢中になっていたアニメ「ピクシー&ディクシー」から由来して、ドラガン少年は『ピクシー(妖精)』というニックネームで呼ばれるようになる。

16歳で地元のクラブ、ラドニツキ・ニシュでプロデビューしたピクシーは、1986年には母国のナンバーワンクラブ、FKツルヴェナ・ズヴェズダ(英語名レッドスター・ベオグラード)の門を叩く。

ピクシーは名門レッドスターでもすぐに頭角を現し、チームは若き天才・ストイコビッチを中心としたチームへと早々に変貌を遂げていった。

当時のレッドスターは、まさにチームにとっての「黄金時代」とも言うべき、天賦の才を持ったスターたちの集合体だった。
チームメイトには、のちのヨーロッパ最強チーム、ACミランでエースに君臨することになる “ジェニオ(天才)”デヤン・サビチェビッチや、98年のワールドカップでクロアチアを3位に導いたロベルト・プロシネツキなどの傑出した選手たちが名を連ねていた。

しかしその中でも「別格」の存在感を放っていたストイコビッチは、天才集団のエースとしてレッドスターを牽引する存在だった。

事実ピクシーは 88年〜90年まで、3年連続でユーゴスラビアリーグの最優秀選手に選ばれている。

そして 90年にはイビチャ・オシム監督のもと、自身初となるワールドカップ・イタリア大会に出場。

スペイン戦で伝説的なフリーキックを決めるなど、ユーゴスラビアのベスト8進出に大きな貢献を果たした。

そんなピクシーに、2度目の転機が訪れたのは 1990年。

フランス有数の実業家にして、国内随一の人気クラブ、オリンピック・マルセイユのオーナーだったベルナール・タピー直々のスカウトを受けて、ピクシーは初めて海外へとその活躍の舞台を移すことになる。

当時のマルセイユは、フランス代表のカリスマエースストライカー、ジャン・ピエール・パパン、イングランドの伝説的ドリブラー、クリス・ワドル、3年連続アフリカ最優秀選手賞に輝くことになるアタッカーのアベディ・ペレなどを集結させた、世界に名だたるスーパースター軍団。

このチームでストイコビッチは「10番」を与えられ、攻撃の核として大きな期待を担うことになった。

しかし不運にも、マルセイユ移籍1年目となった 90/91シーズンの開幕直後に、ピクシーは膝に大怪我を負ってしまい、シーズンの大半を棒に振ってしまうことになる。

ちなみにこのシーズンの最後には古巣のレッドスター・ベオグラードと、所属するオリンピック・マルセイユが UEFAチャンピオンズカップの決勝で対戦。

ピクシーがいかにハイレベルなチームに身を置いていたかが良く分かるけれども、ピクシー本人はケガの影響から、この決勝も7分間だけのプレーに留まる。
けっきょくヨーロッパチャンピオンのタイトルも、古巣のレッドスターに譲る格好となった。

翌シーズンにはイタリア・セリエAのエラス・ヴェローナへのレンタル移籍を経て、 92/93シーズンにはマルセイユに復帰するものの、このシーズンもケガの影響から、1試合も出場は叶わず。

ただし、マルセイユはシーズンファイナルの UEFAチャンピオンズリーグで ACミランを下して、ついに悲願のヨーロッパチャンピオンに輝いた。

ところがその喜びもつかの間、マルセイユに激震が走る。

フランスリーグで、対戦チームの選手にマルセイユのフロントが八百長を持ちかけたことが発覚。
会長のタピーは失脚し、チームにはヨーロッパ制覇の歓喜から一転、2部リーグ降格という厳罰が下されることになった。

そして2部降格を控えたチームで1シーズンをプレーしたピクシーは 1994年の夏、当初は「半年だけプレーする予定で」、新天地となる日本にやって来るのである。

ユーゴスラビアを襲った動乱

ピクシーがJリーグ入りしてからの活躍ぶりは、周知のとおりである。

しかしその華やかなプレーの影で、ピクシーは「祖国の動乱」という重い十字架とも闘っていたことは、もしかしたらあまり知られていないかもしれない。

はじまりは 1990年のことだった。

ユーゴスラビア国内の一地域であったコソボ自治州が、中央政府の強権政治に反発して独立を宣言。
ここから内戦が勃発し、ユーゴスラビアは 10年に渡る紛争の舞台となっていく。

もともとユーゴスラビアという国は 1929年に、セルビア王国が中心となって周辺の国家を連合させて生まれた連邦国家である。

ユーゴスラビアの位置していたバルカン半島はいわゆる「民族のるつぼ」で、ユーゴスラビア連邦は多民族国家の象徴的存在として「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの連邦国家」と評されるような国だった。

しかし、時はソビエト連邦が崩壊し、東ヨーロッパの共産主義政権が次々と倒壊していった時代。

ソ連崩壊後も共産主義体制を維持していたユーゴスラビアでも政府に対する反発が強まり、コソボの独立宣言をきっかけに、翌 1991年にはスロベニア、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが次々と独立を宣言。
これを時期尚早とするユーゴスラビア政府との間で、激しい戦闘が行なわれる悲劇を生んだ。

特にユーゴスラビア中央政府=セルビアと、長くライバル関係にあったクロアチアとの間では戦争が激化。
4年間に渡って、血で血を洗う泥沼の抗争が繰り広げられることになる。

そしてそんな戦争の渦が、やがてユーゴスラビアのフットボール界をも飲み込んでいくことになった。

ユーゴスラビア代表に降りかかった戦火の火の粉

1992年の夏、ピクシーはスウェーデンの地に立っていた。
新生ユーゴスラビア代表のキャプテンとして、ヨーロッパ選手権を戦うためである。

独立宣言をしたクロアチアやマケドニアの有力選手たちが抜けたとは言っても、人材の宝庫だったユーゴスラビア代表は順調な仕上がりを見せて、優勝を視野に入れて現地で調整を行っていた。

そのころ、母国での戦争は激化していた。

ニュースではユーゴ紛争の模様が連日、世界中で報道されていたけれども、そのほとんどが共産主義体制を維持するユーゴスラビア(セルビア)側を「悪」、そこからの独立を目指すクロアチアを「善」と決めつけたステレオタイプの内容で、セルビア軍の悪行ばかりが連日報道される一方、クロアチア軍のそれはほとんどニュースで流れることはない、という有様だった。

西側諸国の間では、「セルビア人=残虐な悪魔」というイメージが、日増しに刷り込まれていくことになる。

ピクシー自身もイタリアのヴェローナに所属していた当時、昨日までフレンドリーだったイタリア人コーチに練習場で挨拶をしようとしたところ、突如、「このモンスターどもめ!」と罵声を浴びせられるという経験をしている。

祖国がそんな形でレッテルを貼られている状況に心を痛めていたストイコビッチは、代表がヨーロッパ選手権で活躍することで少しでも国の人々を勇気づけようと、全てを掛けてこの大会に臨もうとしていた。

そんな矢先、UEFAからユーゴスラビア代表へ、突然の資格停止の通達が出される。

目前に迫ったヨーロッパ選手権への出場権を剥奪されたばかりか、今後の一切の国際試合への参加を禁止され、その日のうちにスウェーデン国内から退去することを強いられたユーゴ代表。

屈辱感と無力感にまみれ、ユーゴ代表の猛者たちは嗚咽をもらしながら、戦わずして決戦の舞台から去ることになった。

そんな戦争の悲劇に翻弄されたピクシーにとって、安住の地となったのが、はじめは一時的な腰掛けとしか考えていなかった国、日本だったのである。

ピクシーの語る「第2の故郷」

名古屋グランパスが初優勝を果たした直後、胴上げで宙を舞ったピクシーは両手で顔を覆い、優勝記者会見の場では感極まって目頭を押さえた。

彼がどれだけ日本を、名古屋を愛しているのかは、その姿からも十二分に窺い知ることができように思う。

ピクシーは選手時代と監督時代を合わせて、もう通算 10年間も日本に住んでいる。

そして彼は、名古屋が「第2の故郷だ」と言い切る。

実際にヨーロッパの友人たちにも、事あるごとに日本の素晴らしさを熱く語っているそうだ。

それは彼が日本で英雄としての扱いを受けていることもさる事ながら、世界のどの国と比べても平和で安全な日本という国が、ピクシーにとっても「安住の地」であったことも大きかったのではないだろうか。

92年ヨーロッパ選手権での失望の後、数年の時を経て、ユーゴスラビア代表への制裁は解かれた。

クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナでの紛争は下火となって、ようやくユーゴスラビアにも一応の平和が戻ったように思えた。

そんな中、誰よりも代表チームと名古屋グランパスを愛するピクシーは、日本とヨーロッパの片道 30時間の道程を乗り越えて、週末に代表の試合に出場した後、ミッドウィークには日本に戻ってカップ戦に出場する、というようなハードワークを続けることになる。

その裏では、あまり表沙汰になることはなかったものの、当時のユーゴスラビア代表監督だったヴヤディン・ボシュコフとの確執という難しい問題も抱えていた。

しかしピクシーの代表にかける情熱が実って、1998年には自身 8年ぶりとなる、2度目のワールドカップ出場を達成。

祖国に平和が戻り、ユーゴの選手たちも再びサッカーだけに情熱を注ぐ日々を取り戻した、…かのように思われた。

しかしこの後バルカン半島は再び、戦火にみまわれることになってしまうのである。

命をかけた脱出劇

1999年 3月、ストイコビッチ率いるユーゴスラビア代表は、2000年のヨーロッパ選手権の予選を戦うために、母国でキャンプを張っていた。

ただし今度の相手はただの相手ではない。
以前は同じ国の国民であった同胞、しかしその後はお互いの命を奪い合った隣国クロアチアとの対戦を、ユーゴ代表は控えていたのだ。

しかしそのユーゴ代表選手たちに、またも非情な宣告がなされることになる。

その2ヶ月前に発生した、コソボにおけるセルビア人兵士の、アルバニア人一般市民虐殺(疑惑)事件に端を発し、アメリカを中心とした軍事同盟 NATOが、ユーゴスラビア国内への空爆を決定。

ユーゴ国内でキャンプを張っていたユーゴの代表選手たちも、命の危険にさらされることになった。

空港は封鎖されている。
散り散りに車に乗り込み、陸路での国外脱出を図ったユーゴ代表選手たち。

ピクシーの車がオーストリアとの国境を超えると、窓の向こうには祖国への爆撃による火柱が上がっていた。

その足でウィーンの空港から日本へ戻ったピクシーは、空爆から3日後、神戸でのJリーグの試合に臨む。

故郷が最新兵器で一方的に爆撃を受け、自国の人々や友人、その子供たち、罪もない一般市民が命を奪われる中、プロとしてピッチに立ったドラガン・ストイコビッチ。
その試合で福田健二のゴールをアシストした後、ピクシーは意を決してユニフォームを脱ぎ、下に着たTシャツに自らが書いたメッセージを披露した。

『 NATO STOP STRIKES (NATOは空爆を止めよ) 』。

それから2ヶ月半が経った後、ようやく NATOによるユーゴスラビア空爆作戦は、停止する運びとなったのである。

敵地で迎えた「決戦」

ドラガン・ストイコビッチはJリーガーとして、そしてフットボーラーとして闘いながら、何度となく地獄の淵を覗いてきた男だ。

ユーゴスラビア代表チームはたびたび敵対勢力からの暗殺計画のターゲットとなり、前述した『 NATO STOP STRIKES 』のメッセージを発した直後には、ピクシー自身も自宅に送られてきた FAXで死の脅迫を受けている。

ピクシーが少年時代に参加した大会で活躍した思い出の地、ブコバルはクロアチアとの戦争での最激戦地となり、市内の建物の 98%が破壊された。

このブコバル出身で代表のチームメイト、シニシャ・ミハイロヴィチ(現フィオレンティーナ監督)は、紛争終結後に自分の生家の様子を伺いに行った際、立てかけられた集合写真の中から、自分の顔だけが銃で撃ち抜かれた様を目の当たりにする。

そんな戦争の悲しい記憶も鮮明に残る 1999年 10月、ユーゴ代表はヨーロッパ選手権予選の最終戦を戦うために、宿敵クロアチアのホーム、マクシミル・スタジアムに乗り込んだのである。

勝ったほうが、本大会出場を決める大一番。

しかも相手は、つい数年前まで凄惨な戦争を戦ったクロアチア。

「完全アウェー」などという生やさしいものではないマクシミル・スタジアムの雰囲気は、憎悪と殺気に満ちあふれていた。

『ジプシー野郎どもを殺せ!殺せ!殺せ!!!』『殺せ!殺せ!殺せ!!!』

4万人の大観衆たちから、狂気を帯びた大轟音の怒声を浴びせられるユーゴスラビア代表選手たち。

当時 21歳で最年少だったデヤン・スタンコビッチ(現インテル)が、顔面蒼白で体を震わせ始める。
キャプテンのピクシーが声をかけた。

「デキ、心配するな。今からここで起こることは、フットボールだけだ。」

そして試合は 2-1でユーゴ代表が勝利して、本大会への切符を手に入れたのである。

日本に舞い降りた「奇跡の妖精」

ドラガン・ストイコビッチは僕たちと同じ時代を生きる人物でありながら、その目に焼き付けてきた光景は、おそらく全く異なる。

ストイコビッチの恩師のひとりで、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のイビチャ・オシムが「ドーハの悲劇」についてコメントを求められた際、
「悲劇?ワールドカップ予選で負けて、誰か死んだのか?悲劇という言葉を軽々しく使うべきではない」
と語ったというエピソードがある。

旧ユーゴの人々にとって、本当の悲劇とは目の前で友人を殺され、故郷を焼かれた「戦争」に他ならなかった。

そしてその地獄を体験しているからこそ、オシムやピクシーの言葉は重い。

フットボールでは世界の頂上決戦を戦い、その一方では戦争を体験して、僕たち日本のサッカーファンからは想像もつかないほどの、本物の修羅場をかいくぐってきたドラガン・ストイコビッチ。

その彼が涙を流すほど、Jリーグの優勝というものは価値がある事なのだ。
そのことを僕たち日本人は、もっと誇ってもいいのではないかと、僕は感じた。

彼について知れば知るほど、僕はこう思わざるにはいられない。

ドラガン・ストイコビッチがJリーグでプレーをする姿を観れたことは、まさに「奇跡」だと。

そして今の、この日本の社会に想いを馳せる。

日本は平和だ。

ややもすれば「退屈で平凡」と考えてしまいがちな日常が、毎日のように当たり前に繰り返されている。

しかしサビチェビッチやミハイロビッチ、戦時下のユーゴの人々がいまの日本を見れば、こう思うのではないか。

「戦争もなければ、テロもない。これほど幸せな国はない。」と。

僕たちは当たり前のように美味しい物を食べ、毎日風呂に入り、サッカーや映画を観て日々を過している。

でも考えてみればそのこと自体が、素晴らしく幸せなことなのかもしれない。

名古屋グランパスが優勝を決めて、他のJ1の 17チームは、形の上では全て「敗者」ということになった。

しかし勝とうが負けようが、応援するチームがあって、そのチームの試合が毎週当たり前に観られること。

それ自体が既に、サッカーファンにとっては大きな幸せであることに間違いはない。

ピクシーの涙は、そんなことを僕たちに教えてくれた。

そして僕は「戦争」という悲劇と向き合いながらも祖国のために戦い、さらに日本にフットボールを伝道したドラガン・ストイコビッチやイビチャ・オシムを尊敬している。

その彼らの姿を追った木村元彦氏の『ユーゴスラビア三部作』は、ユーゴスラビア紛争の悲劇とそれに立ち向かったフットボーラーたちの戦いを描いた名作である。

このブログ程度では語り尽くせないほどの、「本物の戦い」がそこには描かれている。
機会があればぜひ一度、目を通してみていただきたいと思う。

そして僕は名古屋グランパスの優勝と、ドラガン・ストイコビッチ監督の手腕に、心からの賛辞を贈るのである。

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