Wembley Stadium / (Mick Baker)rooster
不思議と、悔しさは無かった。
正確に言うと悔しくなかったわけではないんだけれども、色んな感情が湧きすぎて、頭が真っ白になってしまったという感じである。
そして少し時間が経ってから生まれてきたのは、悔しさではなく、むしろ「寂しさ」だった。
ああ、もうこのチームを見れないのか。
そんな寂しい気持ちのほうが、僕の中では強くなっていたのだ。
死闘となったアメリカとの「ファイナル」
「最高の舞台、最高の相手、最高のメンバーと戦える。楽しみですね。代表に入ってからずっと、五輪のメダルが目標だったので」。
澤穂希が日本代表にデビューしたのは1993年。それからもう20年近い時間が流れている。
93年といえばJリーグブームに日本が沸いていた年だけれども、当時の女子サッカーへの注目度は低く、男子のオマケ的存在にすらなっていなかった。
そんな時代から日本を引っ張り続けてきた澤穂希が、代表Aマッチ186試合目にして、ついに迎えた夢の舞台、『オリンピック決勝』。
もしかしたら澤にとっても、佐々木則夫監督にとっても、その他のベテラン選手たちにとっても、最後の代表マッチになるかもしれない重要な一戦。
そしてそのフィナーレの舞台となったのは、サッカー発祥の地・イングランドで “フットボールの聖地” と呼ばれるウェンブリー・スタジアム。
なでしこジャパンが有終の美を飾るには、これ以上ないと言えるほどの最高の舞台が整った。
佐々木則夫監督が就任してから4年半。北京オリンピックの3位決定戦で敗れ、メダルを逃してから丸4年。なでしこジャパンはただひたすら、この 2012年8月9日のウェンブリーを目指して戦ってきたのである。
その全ての想いをぶつける一戦が、ついにキックオフの時を迎えた。
なでしこジャパンは6月のテストマッチで、アメリカに1-4と大敗している。そしてこの時に苦しめられたのが、アメリカがキックオフ直後から仕掛けてきた猛烈な「ハイプレス戦術」だった。
しかしこのオリンピック決勝では、アメリカはほとんどハイプレッシャーをかけて来なかったのである。これは2週間で5試合を戦った過酷なスケジュールの中で、アメリカのスタミナが相当に消耗されていたことが原因だろう。アメリカは自分たちのコンディションを考え、プレスで主導権を握るのではなく、まずは慎重にゲームに入るという現実的な策をとってきた。
しかし日本に有利なはずだった展開の中、なでしこジャパンはわずか8分で先制点を許してしまう。
アレックス・モーガンに左サイドをえぐられてからのクロスを、カーリー・ロイドに頭で決められて 0-1。
モーガンにもう少し厳しいプレッシャーをかけられていたら…と考えると、あまりにももったいなかった先制点。この失点でなでしこジャパンのゲームプランは崩れ、試合の大部分を「追いかける」立場でプレーすることになってしまったのである。
そして逆にアメリカはラインを下げてゴール前を固め、日本の反撃を弾き返すディフェンシブなシフトをとっていった。
しかし日本にとってはむしろ、アメリカのディフェンシブな戦法は好都合だった部分もある。
このオリンピックでの日本は、この日のアメリカと同じような守備的なサッカーで勝ち上がってきたけれど、本来の日本は攻撃的なパスサッカーを得意とするチームでもある。アメリカがラインを下げてブロックを作ったことで中盤にスペースが生まれ、日本はパスワークを活かした攻撃を展開することができるようになった。
そして日本は、この日は左サイドを何度も突破して攻撃の中心となっていた川澄奈穂美を筆頭に、大儀見優季、大野忍、宮間あやたちが再三アメリカのゴール前に迫っていく。
しかし、そこに立ちはだかったのがアメリカの守護神、ホープ・ソロだった。
「世界最高のゴールキーパー」とも呼ばれるこの美しき守護神が、この日はビッグセーブを連発。日本の決定的なシュートを何度となくストップしていく。
そして迎えた54分、カウンターからロイドのドリブル突破を許し、最後は豪快なミドルシュートを決められて 0-2。
2点のビハインドを負ったなでしこジャパンは、今大会で最大のピンチを迎えることになってしまった。
しかし、なでしこたちの反撃は、ここからスタートを切る。
迎えた63分。
宮間のスルーパスに反応した大野がラインの裏に抜け出して、右サイドから澤へのグラウンダーのクロスを送る。
澤のシュートはいったんはDFにブロックされたけれども、そのクリアボールを再び体に当てにいく澤。
そして最後はそのこぼれ球を、大儀見が押し込んでゲットゴール。
日本のパスワークと泥臭さが集約されたこのゴールで、日本は 1-2 と1点差に詰め寄った。
そしてゲームは、ここから総力戦の様相を呈していく。
勢いに乗り、幾度となくアメリカのゴール前に迫っていく日本。しかし、アメリカも体を張った守りでゴールマウスを割らせない。
終盤、日本は岩渕真奈と丸山桂里奈の2人のアタッカーを投入して同点を狙いにいく。その中で岩渕がソロと1対1になる惜しいシーンなども生まれたけれど、ソロのファインセーブもあってゴールは奪えない。
攻める日本。
耐えるアメリカ。
しかしその後も同点弾は生まることはなく、結局そのままタイムアップ。
優勝まであと一歩と迫りながら、日本はアメリカに敗れ、銀メダルを手に大会を終えることになったのである。
実現した「夢物語」
両チームとも連戦の疲れでベストコンディションではない中、最後まで勝利を目指して戦ったグッドゲーム。
日本が負けてしまったことは残念だったけれども、女子サッカー界全体という視点で見れば、良い大会だったと言っていいのではないだろうか。
女子サッカー界の盟主であるアメリカが3連覇したことで、現在休止中のアメリカのプロリーグも、新リーグ立ち上げに弾みがついたことだろう。
また3年後のワールドカップの開催国であるカナダが銅メダルを獲ったことは、大会の盛り上がりに向けての相当な追い風になったはずだ。フランスの躍進とも合わせて、女子サッカーが世界でより広く普及していくための大きなきっかけを生んだ大会だったと言えるのではないだろうか。
そして我らがなでしこジャパンは、負けはしたけれども、オリンピックで初めてのメダルを獲得。
最後まで全力で走り続けた彼女たちの姿は日本中の人々に感動を与えたはずで、これから女子サッカー人気が定着していくための、大きな力になっていくだろう。
しかし僕個人の話をさせてもらうと、この決勝戦に限っては、勝ち負けにはそれほど大きな意味を感じていなかったのである。
2010年の秋に、なでしこリーグの試合を観に三重県の上野運動公園陸上競技場まで行ったことがある。
そこは「スタジアム」と言うよりは「グラウンド」と言ったほうがしっくり来るような、古くて小ぢんまりとした田舎の競技場だった。
小さなスタンドからは地元のおっちゃん・おばちゃんや子供たちがのんびりと試合を眺めていて、その300人くらいの観衆の前で、大野忍や近賀ゆかり、岩清水梓、岩渕真奈などの日本代表選手たちがボールを追いかけていた。
ハーフタイムに、当時3歳だったうちの息子が通路で小走りをしてしまい、前から来た男性にぶつかりそうになった。
僕が息子をつかまえて「すみません」と会釈して顔を上げると、その男性はなんと、視察に来ていた佐々木則夫監督だった。
佐々木監督は怒ったような素振りは一切見せずに「元気があっていいね!」と言わんばかりの表情でニコッと笑ってその場を去っていったのだけれども、僕はそのナイスガイぶりに佐々木監督の人間性を垣間見た気がして、それから佐々木監督のファンになった。
そして試合後には、競技場のすぐ外でファンの人たちが「出待ち」をする光景に出くわした。
上野運動公園にはピッチと更衣室との間に専用の通路というものがなくて、選手たちはいったん一般の人と同じように競技場の外に出てから、更衣室に行く作りになっていた。そこで試合後の選手たちが更衣室まで行く途中、路上でファンと写真を撮ったりサインをしたりしていたのだ。
こういう光景からは女子サッカーとファンとの「近さ」を感じられて僕は微笑ましく思ったのだけれど、それでも女子サッカーの将来を考えると、いつまでもその状態でいるのがベストだとも思えなかった。
それでも当時の僕には、その状況をどうやったら変えることができるのかなど、皆目見当がつかなかったのである。
それから、まだ2年も経っていない。
しかし、その時に芝生のはげたピッチを走り回っていた選手たちが今、8万人の大観衆の前で、ウェンブリー・スタジアムで金メダルをかけて戦った。
僕の頭の中が真っ白になったのは、2年前から比べると信じられないようなその光景に、現実味を感じられなかったからかもしれない。
とにかく、この舞台になでしこジャパンが立っているだけでも、僕にとっては “夢のような光景” だったのだ。
なでしこジャパンの迎えた「卒業式」
ロンドン・オリンピックを舞台にした、なでしこジャパンの2週間の物語は幕を閉じた。
苦戦続きだった序盤戦。南アフリカ戦で起きた引き分け騒動。そして守りに守って勝ったブラジル戦、フランス戦を経て、最大のライバル・アメリカと戦った決勝戦。
本当に、いろいろな記憶の詰まった2週間だったと思う。
そして大会自体は2週間だったけれども、ワールドカップ以降もなでしこジャパンを追い続けてきた熱心なファンからすれば、足かけ1年をかけた長編ストーリーでもあった。
そして佐々木監督や選手たちからすれば、北京オリンピック以降、4年間をかけた戦いだっただろう。
さらに澤穂希にとっては、代表デビュー以来20年間をかけた、長い長い道のりだったのだ。
そしてそのすべての物語が、この日のウェンブリーで幕を閉じたのである。
オリンピックで一つのサイクルが終わり、なでしこジャパンはいったん解散をすることになる。
澤穂希を中心にした「佐々木ジャパン」はワールドカップ優勝、オリンピック銀メダルという輝かしい戦績を残し、日本のサッカー史にその名を刻んだ。
彼女たちはたぶん、釜本邦茂とメキシコオリンピックの代表チームがそうだったように、日本サッカー界の『伝説』になるだろう。
しかし次のワールドカップは3年後。
その時には監督も選手たちも、今とは大幅に入れ替わっている可能性も高い。
だから試合後の授賞式は、僕にはなでしこジャパンの「卒業式」のように見えたのだ。
担任の佐々木監督の見守る中、校長のブラッターさんから、ひとりひとりにメダルがかけられる。
笑いや涙。思い思いの方法で、その気持ちを表現する選手たち。
僕はそれを眺めながら改めて、ああとうとう、このチームの歴史が終わるんだな、と感じた。
決勝では負けてしまったけれど、なでしこジャパンの手にした銀メダルの価値は、アメリカの金メダルに少しも劣っていないと僕は思う。
ほんの1年ちょっと前まで、注目もされず、充分なサポートも受けられず、それでも「サッカーが好き」という一心で、ひたすらボールを追いかけていたなでしこたち。その彼女たちが自分たちの力で世界チャンピオンとなり、銀メダリストなった。
今では巷で「なでしこジャパン」の名前を知らない人はいない。
それまでサッカーに興味の無かったような人たちでさえ「今日はなでしこを応援しなきゃな〜」と話題にする。
平日の深夜や早朝に、何千万人もの人がテレビの前で、なでしこジャパンに声援を送り続ける。
こんな「夢物語」が実現したのは、間違いなくなでしこジャパンの選手たち、スタッフたちの努力によるものだ。
そしてそれはオリンピックの金メダルよりも、ずっと価値のあるものだと僕は思っている。
そしていま僕たちにできることは、この女子サッカー人気の「火」を消さないことだろう。
僕はこれからもなでしこリーグに足を運んでいくし、このブログで女子サッカーの魅力を伝えていきたいと思っている。
それが2回の夏で大きな感動を残してくれたなでしこジャパンに、僕からできる、一番の恩返しだと思うのだ。
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