「問題提起」という収穫/コンフェデレーションズカップ@日本代表 1-2 メキシコ代表

※写真はイメージです photo by Francisco Carbajal

3戦全敗、勝ち点0。

国際大会でのこの成績は、日本がワールドカップに初出場した1998年以来、15年ぶりのものだそうです。
一言で言うと「やっちまったな!」と言う感じでしょうか。
日本がもし20世紀の独裁国家だったらならば、監督・選手たちは90日間監禁された上で、マッチョな処刑人にムチ打ちの刑に処されたりしたのでしょう。

もちろんプレーの内容には光る部分も無かったではないですが、代表のプライドにかけて “最低限残さなくてはいけない結果” というものもあると思います。
勝ち点0では、さすがに批判は免れません。

なぜこうなってしまったのか、協会は真剣に検証をする必要があると思います。

メキシコ代表の見せた「戦術的柔軟性」

2002年のワールドカップ・チャンピオンのブラジル、そして2006年のチャンピオンのイタリア。
この両国と比べると、A代表の実績では一歩劣るメキシコですが、アンダー世代では2005年と2011年のU-17ワールドカップで優勝、2012年のオリンピックで金メダルを獲得するなど、ここ数年で飛躍的な進歩を見せています。

日本にとっても「難敵」と呼べるメキシコでしたが、ザック・ジャパンも手ぶらで帰るわけにはいきません。
この第3戦は、2連敗でグループリーグ敗退が決まったチーム同士の、最後の意地を賭けた勝負となりました。

この試合、立ち上がりは日本がゲームを支配して、数多くの決定機を生み出します。
その背景には、日本が行ったある「シフトチェンジ」がありました。

この試合での日本は、イケイケで強豪国にぶつかって行った第2戦までとは違って、ディフェンスラインを深めにしたカウンター気味の戦術を採っています。
これは積極的に攻めながらもけっきょく負けてしまった前2戦の反省があったのかもしれませんし、連戦の疲れでプレッシングサッカーを実践するのが難しくなっていたのかもしれません。
ザッケローニ監督が指示したことなのか、それとも選手たち同士の話し合いの中で決まったことなのかは分かりませんが、とにかくこの日の日本のスタイルは、前の2戦とは違うものになっていました。

同時に、これは大きな変更だ、と個人的には感じたのです。

そして序盤は、その新戦術がうまくハマります。

日本とは対照的に、ラインを高くして前がかりに攻めてきたメキシコは、ゴール前を固めた日本のディフェンスの餌食になり、そこから繰り出されるカウンター攻撃がメキシコのゴールに襲いかかりました。
この時間帯に日本は、香川真司のGKとの1対1や岡崎慎司の「幻のゴール」など、数多くの決定機を創り出します。

しかし日本のその勢いが続いたのも、前半の15分ごろまででした。
その後は、徐々に日本の戦術に対応してきたメキシコが無理にラインを上げず、後方にブロックを築いて日本と同じようなカウンター戦法にシフトしていきます。
すると次第に形成は逆転し、前半の終わり頃には、メキシコが完全に主導権を握る展開になっていきました。

ここで主導権が逆転した理由は、疲れで日本の足が止まったことなどもあるでしょうが、一番はメキシコのほうが、単純に日本よりも「カウンター戦術のクオリティーが高かった」からだと感じました。

日本はザック就任からの2年半、アジア等の格下チームとの対戦が多く、カウンターで戦った回数はかなり限られています。
それだけに、どうしても「付け焼刃」の印象は拭えませんでした。

対するメキシコも北中米カリブ海の格下チームとの対戦が多かったはずですが、同時にコパ・アメリカなどの「真剣勝負」の場を経験しているからか、カウンター戦術もこなす柔軟性を持っていました。
この日の日本のディフェンスが単純にバイタルエリア付近に人数を割いているだけで実際には1対1で対応する場面が多く、簡単に最終ラインの選手との1対1の状況を作られてしまっていたのとは対照的に、メキシコは最終ラインと中盤の選手とでボールホルダーを挟み込む、組織的なディフェンスを徹底しているように見えました。

同じようななカウンター戦術同士の対戦でも大きく明暗を分けてしまったのは、この両チームの戦術的クオリティーの差が原因だったように、僕には感じられたのです。

また個人的には、この日のメキシコの戦いぶりは、日本が直近で目指すべき方向性と非常に近いのではないか、という印象を受けました。

ラインを高くキープしてのプレッシング&ポゼッションサッカーが日本の基本スタイルですが、試合展開に応じては低い位置でブロックをつくり、そこからのカウンター攻撃を狙うような柔軟性が、ワールドカップで勝つためには必要ではないかと僕は考えています。
その2つの戦術の切り替えを試合中にフレキシブルに行うことができれば、日本のレベルも一回りアップすることでしょう。
そして、それを実践していたのがこの日のメキシコです。

今大会でもメキシコのように柔軟な戦いができていれば、日本はイタリアにも勝っていたかもしれませんし、3戦全敗を避けられていた可能性も高いです。
来年のワールドカップに向けて日本が磨き上げるべきは、2つのスタイルを自在に使い分けることのできる「戦術的柔軟性」なのではないかという思いを、僕はいっそう強くしました。

ザッケローニ監督を取り巻く「ゆるい空気」

この敗戦は「メキシコに負けた」という以上に、「3戦全敗が確定した」という意味でも重い敗戦だったと思います。
当然、この結果を1年後のワールドカップでも繰り返すわけには行かないので、これから何らかの対策を練っていかなくてはいけません。

その一環として、「ザッケローニ解任」という言葉も、いよいよメディアに登場し始めました。

単純な好き・嫌いだけで言うと、僕はザッケローニ監督の紳士的な人柄は好きです。
メディア関係者からもザックのキャラクターは好意的に捉えられているようで、これまでは結果が出ない時でも、ザックがあからさまにメディアに叩かれるようなことは少なかったように思います。
このあたりは、ある程度の結果を出しながらもメディアにバッシングされ続けていたフィリップ・トルシエとは対照的で、つまりメディアも人の子だということでしょう。

ただ、いくらザッケローニ監督が人格者だとしても、結果が出なくても批判されない、という状態は健全ではありません。

個人的にはその人柄以上に、ザックがこの2年半を通じて日本サッカーへの理解を深めていること、ワールドカップ予選などで結果を残していること、残り1年という時期に監督を交代させることはリスクが大きいこと、そもそも他に「この監督なら絶対に大丈夫」と思えるような有力な候補がほとんど見当たらないこと、などの理由から、いま監督交代はしないほうが良いと考えています。
ただ、かと言ってザックの全てを肯定しているわけでもありません。

何より、ザックに対してのメディア等からのプレッシャーが少なすぎる現状には多少の違和感を覚えます。
人格者であっても批判される時はされるべきで、「3戦全敗」という結果に終わった今回も大したおとがめなし、ということでは、今後の代表チームの強化にも良くない影響を与えるのではないでしょうか。

本番までの1年間、我々ファンもメディアも、ザック・ジャパンに温かくも厳しい目線を投げかけ続ける必要はあるでしょう。

それらも含めて、本番の1年前に問題点を洗い出せたという意味では、このコンフェデレーションズカップは貴重な経験の場になったと思っています。

日本代表に欠けている「コンセプト」

コンフェデレーションズカップが終わって、「ザックは解任するべき」「いや、目指している方向性は間違っていない」「誰々はもう使うな」「でも誰に代えるの?」など、代表チームについて色々な議論が巻き起こっていますが、僕的にはイタリア戦の記事にも書いた通り、『そもそも日本代表は、何を目指して戦っているのか?』が明確でないことが、この問題を更にややこしくしてしまっているように感じています。

本田圭佑や長友佑都は「ワールドカップ優勝」を公言していますが、ザッケローニ監督からは具体的な目標は語られたことがないと思います。

選手が「優勝」を口にするのは「自分を奮い立たせるため」という側面もあるのでしょうが、それでも目標に掲げた以上は、本気でそれを目指さなくては意味が無い、というのも彼らなら百も承知でしょう。
しかしザック監督は、「優勝」を口にしていないことからも、おそらく現実的には「優勝は難しい」と感じているのではないでしょうか。
そして選手と監督とのこの微妙な温度差が、チーム内に不協和音をもたらす可能性も、個人的には危惧しているのです。

「優勝」を狙うのか、それとも「数年後のワールドカップでの優勝を狙い、ブラジル大会はあくまでもその通過点」と考えるのかで、今後の試合へのアプローチも、このコンフェデレーションズカップの評価もまったく違ったものになってくるでしょう。

今大会は3戦全敗に終わったとは言え、イタリア戦の戦いぶりなどに光る部分もありました。
もしこの大会を、将来的に『日本代表が「自分たちのサッカー」=「ポゼッションサッカー」でワールドカップ優勝を目指すための、長期的なプロセスの一環』であると考えるならば、この大会は成功だったと言えるでしょう。

しかし、あくまでも1年後のブラジルワールドカップで「優勝」を目指すのであれば、勝ち点0は不満の残る結果と言わざるを得ません。

僕が気がかりなのは、そもそも代表チーム内で、その「来年のワールドカップでの具体的な目標」が共有されていないように思えることです。

あくまでもワールドカップ優勝を狙う本田圭佑は、いまの代表チームに足りないものを、メディアを通じて各選手たちにも伝えています(直接も言っているでしょうが)。
それは時に強い口調を伴うもので、言われた側の選手たち、またはメディアを通じてそれを聞いたファンの一部からは反発が出てもおかしくはなさそうな内容です。
しかし本来こういう言葉は、まずはチームの全責任を負う「監督」から発せられるべきではないのでしょうか。

それでもザッケローニ監督は、必ずしも「ワールドカップ優勝」を狙ってはいないので、いまのチーム状態にある程度満足している。
だから、選手たちに厳しい言葉を投げかける必要がない。
そんな監督の代わりに、より高い目標を掲げる本田圭佑が、チームの「嫌われ者」になろうとしている。

上記は僕の憶測ですが、もし本当にそんな構図なのだとしたら、これは問題のある状態のように僕には見えるのです。

そしてその歪みの根本は、前回の記事にも書きましたが「チームの目標が明確化されていない」ことに尽きるのではないでしょうか。

クラブチームでも、優勝を目指すのか、チャンピオンズリーグ出場を目指すのか、1部残留を目指すのかなど、各チームの立ち位置によってシーズン開幕前に「目標」を設定していると思います。

日本代表も、次のワールドカップを「優勝や上位進出を目指す大会」と位置づけるのか、それとも「日本サッカーの目指す方向性を固めるために、経験を積むための大会」と位置づけるのかで、チームの戦い方が変わってくるのは当然のことです。

しかし今の代表チームは、そんなコンセプトの共有すらハッキリとできていない。

突き詰めていけばこれは、ザッケローニ監督の責任でも選手たちの責任でもなく、日本サッカー協会の責任であると僕は考えます。

日本サッカーが、将来的には何を目指していくのか。
そのために、次のワールドカップでどの程度の成績を目標にするのか。
そもそも協会はどんな目的を持って、ザッケローニ監督を招聘したのか。

思えばそういったコンセプトが曖昧なまま、日本代表は2年半を過ごし、気がつけばワールドカップまであと1年という時期まで来てしまいました。
残りの1年間をまた曖昧に過ごすようであれば、本大会で日本は空中分解を起こしかねないようにも思います。
まるであの、2006年ワールドカップのように。

日本にとっての最優先事項が「勝利」なのか、「日本サッカーのスタイルを固める」ことなのか、それがハッキリしなければ、今後も代表チームを取り巻く論争は収まることはないでしょう。

もちろん「日本の目指すサッカーをやって、その上で勝つ」のが理想なのでしょうが、では、それが難しくなった時にはどうするのか。

「醜いサッカーをやってでも勝ちにこだわる」のか、それとも「美しいサッカーをして負ける」ことを潔しとするのか。

このコンフェデレーションズカップで日本が得た最大の収穫は、そんな、自分たちの方向性への「問題提起」だったのかもしれません。

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