マルセイユを復活させた「不屈の闘将」、ディディエ・デシャン

唐突ながら17年前と言うと、どんな年だっただろうか?
サッカー界で言えばJリーグが開幕したのが17年前である。ワールドカップ予選の “ドーハの悲劇” もこの年の出来事だ。
オールドファンの方からすると「もう17年も経ったのか〜」と感慨深いものがあるんではなかろうか。
僕もその一人なんだけれども、逆にいま二十歳前後の人たちからすると、17年前の出来事は、もう全く知らない時代の昔話なんだろうとなとも思う。
そう考えると、改めて17年という歳月の重みを感じるものだ。
そして海外に目を移すと、17年前にチャンピオンズリーグを制した1つのチームがあった。
そしてそのチームが今年、長い低迷期を抜けて、実に17年ぶりのリーグ優勝を実現させたのだ。
そのチームとはフランスの古豪、オリンピック・マルセイユである。

個性派の集うリーグ・アン

ヨーロッパのいわゆる3大リーグと比べると、フランスリーグはいかにも地味である。
松井大輔らの日本人選手たちがプレーしているにも関わらず、昨シーズンからはとうとうスカパーでも中継が無くなった。
それだけ日本では注目されていないという事なんだろう。
しかし、僕は何気にフランスリーグを観るのが好きだった。
スーパースター級の選手は3大リーグに流れてしまうけれども、小粒ながらも技巧的な選手やフィジカルの強い選手など、特徴のある選手が揃うのがフランスリーグの面白いところである。
またアフリカ系の選手が多く、3大リーグではあまり観る機会が無いような国の選手のプレーも堪能する事ができる。そんなマイナー感がたまらなくいい味を醸し出していた。
スカパーで観れなくなってしまったのはまっこと残念である。
そんなフランスリーグの中で、僕が最も応援しているチームがオリンピック・マルセイユである。
だからマルセイユの17年ぶりの優勝は、僕にとってはたまらなく嬉しい出来事だったのである。

オリンピック・マルセイユ、その歴史の光と影

93年にはUEFAチャンピオンズリーグをも制し、絶頂期にあったマルセイユ。
当時の主力選手は、ドイツ代表でもエースストライカーとしてワールドカップ優勝を経験したルディ・フェラー、この年のリーグ得点王となったクロアチア代表のアレン・ボクシッチ、当時のアフリカを代表する名手だったガーナ代表のアベディ・ペレ、フランス代表の “闘将” ディディエ・デシャン、その後に日本でも活躍したあの “ピクシー” ドラガン・ストイコビッチ(ただし怪我のためにシーズンの大半を欠場)、その後フランス代表およびACミランでもディフェンスの要を担ったマルセル・デサイー、同じくその後フランス代表でワールドカップ優勝GKとなったファビアン・バルテズらの錚々たるメンツで、まさにヨーロッパチャンピオンにふさわしい戦力であった。
しかし、そんなマルセイユが弱体化するのにかかった時間はほんの一瞬だった。
国内リーグにおいて、当時のマルセイユ会長ベルナール・タピによる八百長事件が発覚。
この年にフランスリーグを制していたマルセイユはタイトルを剥奪され、2部降格の制裁を受ける。
まさに天国から地獄。
マルセイユがチャンピオンズリーグ優勝の余韻に浸れたのは、ほんのつかの間の出来事だった。
主力選手たちは流出し、チームは音を立てて崩壊したのである。
2シーズン後の96年には1部リーグ復帰を果たすものの、八百長事件でついたダーディーなイメージは拭えず、完全復活までには長い歳月を要した。
2000年代に入ってからはようやくリーグ・アン上位に定着するようになり、そしてとうとう今シーズン、実に17年ぶりのリーグ優勝に輝いたのである。
その原動力となったのは、17年前にチャンピオンズリーグを制した際にもキャプテンとしてチームを牽引した、ディディエ・デシャン監督であった。

偉大なる「不屈の闘将」、ディディエ・デシャン

現役時代のデシャンと言えば、”不屈の闘将” として知られる。
174cmの小柄な体格で、テクニックも高くはなかったものの、「マラソンマン」と呼ばれるほどの豊富な運動量と戦術眼、そして強靭な精神力を武器にして活躍。
フランス代表では98年ワールドカップと2000年のヨーロッパ選手権で優勝を飾り、クラブでもマルセイユとユベントスでそれぞれUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験。しかもその全てのチームでキャプテンを務めた、まさにリーダーシップの塊のような男である。
そしてデシャンは、指導者となってからも「不屈の男」であり続けた。
デシャンが監督として初めて注目を集めたのは03-04シーズンだった。
当時デシャンが率いていたASモナコは、前年のリーグ・アン2位という成績を受けてUEFAチャンピオンズリーグに出場。
ここであれよあれよの快進撃を見せ、なんと大方の予想を覆して決勝まで進出してしまうのである。
この年のチャンピオンズリーグ決勝は、モナコ対FCポルトという、大会前はアウトサイダーと見られていたチーム同士の顔合わせとして注目を集めた。
ちなみにこの当時のヨーロッパサッカーの舞台に彗星のように現れ、その莫大な資金力でサッカー界の風雲児となっていたのがチェルシーのロマン・アブラモビッチオーナーだった。
そしてこの決勝を前にアブラモビッチは、優勝したチームを率いていた監督を、翌シーズンのチェルシーの監督として迎え入れようと考えていたようである。
そして結果は、ポルトが優勝。
アブラモビッチの計画通り、ポルトを指揮していたジョゼ・モウリーニョはチェルシーの監督へと引き抜かれていった。
逆に、勝っていればチェルシーの監督となっていたかもしれないデシャンは、そのチャンスを掴むことができなかった。
モウリーニョはその後、チェルシーの監督として一時代を築く。
まさにこの決勝戦こそが、若き2人の指揮官のその後の運命を分けた分水嶺となったわけである。

ディディエ・デシャン、その波乱の監督人生

けれどもデシャンはくじけなかった。
モナコを退任した後、彼が指揮をとったのは古巣のユベントスである。
しかしこの時のユーベの状況は最悪だった。
世界中を震撼させたイタリアサッカー界の一連の八百長事件「カルチョ・スキャンダル」の当事者として、チームは2部降格を言い渡されたばかり。
華やかなスポットを浴びることのないセリエBで、主力選手の多くが抜けてしまったユベントスを、デシャンは静かに立て直して行った。
そしてユーベをセリエB優勝へと導き、1年でセリエA再昇格の切符を手にいれたのである。
ところが、昇格というミッションを達成したにも関わらず、デシャン監督に契約延長のオファーは届かなかった。
ユベントスフロント陣との確執も噂されたものの、いずれにせよデシャンはわずか1年でユーベの監督の座を降りる。
そしてデシャンはその後、しばらく表舞台から姿を消したのである。
そこにユーベでの挫折による影響があったのかどうかは分からない。
いずれにせよデシャンは一時的に一線を退き、再び現場に戻るまでに2年の歳月を要した。
そして長い充電期間の末に監督の座に座った場所が、今シーズンのマルセイユであった。
かつてのキャプテン、ディディエ・デシャンに率いられたチームは国内リーグで快進撃を見せ、シーズンの最後には17年ぶりの優勝にまでたどり着いてしまったのである。

デシャンとマルセイユとの冒険物語、第2章

デシャンはこれまで監督として指揮をとった全てのチームで、何らかの際立った実績を残していることになる。
これは容易なことではない。
この実績を見るだけでも、彼が並大抵の監督ではないことが分かるだろう。
しかもデシャンの前には、現役時代から常に「逆境」が立ちはだかっていた。
にも関わらず、彼は持ち前の不屈の闘志で、それらの逆境をことごとく乗り越えてしまったのである。
現役時代と全く変わらぬリーダシップで、監督としても大きな成功を収めつつあるディディエ・デシャン。
彼が来シーズンもマルセイユで指揮をとり続けるのかは分からない。
しかし、そうなってくれたらマルセイユファンの僕としては喜ばしい限りである。
そしてこの活躍を続けていれば、デシャン自身にも、更なる成功の扉が開けてくるだろう。
その先に待っているのは3大リーグのビッグクラブへの移籍なのか、はたまたフランス代表監督の椅子か。
17年の時を経て、選手としても監督としてもマルセイユに栄光をもたらしたディディエ・デシャン。
その栄光の歴史は、今後も続いていくはずである。
とりあえず僕は今、そのデシャンとマルセイユの冒険を、もう少しのあいだ見守り続けたいと思っている。

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