「シンデレラボーイ」。
この甘美な響きから、皆さんはどんな「ボーイ」の姿を想像するだろうか。
僕の場合なら小池徹平や溝端淳平のような、美白・童顔・二重まぶた・フワフワ栗毛の美少年を連想する。
要するに “ジュノン・スーパーボーイ” とほぼ同じイメージである。
そして自らを自虐的に「ゴリラ」と呼ぶ長友佑都は、そのイメージからはおよそ程遠い。
しかし、長友は紛れもない「シンデレラボーイ」だ。
つい4年ほど前までは、所属する明治大学ですらレギュラーではなかった男。
その全くの無名選手だった長友が、サイドバックに転向されたことを機に “覚醒” する。
明大でレギュラーとなると、全日本大学選抜に選ばれ、FC東京の特別指定選手になって、その後にプロ契約を結ぶ。
そしてオリンピック代表メンバーに選ばれ、ナビスコカップに優勝し、A代表に抜擢されてレギュラーとなって、ワールドカップで 16強に輝いた。
そしてとうとう、海外移籍という夢を実現させてしまう。
「長友佑都」という名前が世間で認知されるようになってから、ほんの3年ほどの間の出来事である。
日本サッカー界に彗星のように現れたサイドバックは、続いて世界のサッカー界でも、輝く大きな星となろうとしている。
しかしそのシンデレラストーリーの裏には、いくつもの奇跡を実現させてきた、「運命の出会い」があった。
長友佑都を救った「運命の出会い」
長友佑都は「不良少年」だったそうだ。
愛媛県出身の長友は、小学生時代はフォワードとしてプレーして、県大会でベスト4に入るくらいの実績を持っていた。
そして中学進学にあたり、自信を持って受験した地元・愛媛FCのセレクション。
しかし長友は、このセレクションに落選してしまう。
少年時代に味わった大きな挫折。
けれども結果的に、これが長友のシンデレラストーリーの始まりだった。
仕方なく地元中学校に進んだ長友は、そのサッカー部に入部する。
ところがこの中学のサッカー部は、いわゆる「ヤンキーの溜まり場」だった。
部はまともな活動をしておらず、長友もサッカーへの情熱を失ってしまう。
髪を金髪にして、ゲーセンに入り浸るような日々が続いた。
しかし長友佑都はここで、ひとつの運命的な出会いを果たす。
長友の入学と共に赴任してきたサッカー部の顧問、井上博教諭。
のちの恩師となるこの人物はサッカー部の再建に心血を注ぎ、長友を粘り強くサッカーの道へと引き戻していった。
長友いわく、その姿は「本当に金八先生みたいだった」そうである。
井上「佑都!お前ゲームセンターなんかで何してんだ!」
長友「……(小声で)チッ、うっせーな…」
井上「佑都!お前サッカーで一番になるんじゃないのか!練習戻るぞ!」
長友「何してようが俺の勝手だろ、ウゼーんだよ先公!!」
井上「馬鹿野郎!!」
(ここでバシー!と愛のムチ。しかしその後に抱きしめて)
井上「お前は俺の生徒だー!!!」
長友「せ、先生!先生よー!」
…と、少年・長友佑都とリアル金八の間でこんなやりとりが行われたのかまでは、ちょっと分からない。
ただとりあえず、「スクールウォーズ」を見てラグビー部に入った僕としては、なかなかにそそられるエピソードである。
長友は小学校時代に両親が離婚し、母親に女手一つで育てられた。
それだけに、大人の男性にどこか不信感を抱いていた部分があったそうである。
しかし井上の親身の指導は、徐々に長友の心を溶かしていった。
もしかして長友にとって井上は、本物の父親のような存在だったのかもしれない。
井上との出会いによってサッカーへの情熱を取り戻した長友は、この中学の3年間でサッカー選手としても人間としても、大きく成長を遂げることになった。
今からは想像がつかないけれども、中学に入るまでの長友はテクニック自慢で走るのが大嫌いな、典型的な「王様」タイプの選手だったそうだ。
しかし井上は徹底的に「走る」練習をさせることで、長友のこのプレースタイルを矯正していった。
こうして、現在の長友佑都の原型が築き上げられていく。
井上との出会いがなければ、いまの長友佑都は存在していなかっただろう。
長友佑都の歩んだ「サクセスストーリー」
中学卒業後、長友はより高いレベルを目指して、福岡の強豪・東福岡高校へ越境入学を決意する。
この時に長友は、井上に
「絶対ビッグになるから」。
と約束したそうだ。
言う側も聞く側も、どれだけこの言葉を本気に捉えていたのかは分からないけれども、結果として長友は、見事にそれを実現させたわけである。
高校に進学して長友は、人一倍努力を重ねる3年間を送った。
朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅くまで練習に励んだ。
持ち前のフィジカルの強さは、この3年間で磨きがかけられた。
母親に経済的負担をかけているとの思いから、授業もサボらず勉強にも熱心に取り組んだ。
そしてレギュラーとして、全国高校選手権出場も果たした。
それでも飛び抜けた存在ではなかった長友は、プロからは声がかかることがなく、将来の就職も見据えて明治大学に進学する。
エリートではなかった長友は、1年生時は出場機会に恵まれないまま不遇の日々を過ごした。
しかし、ここで再び運命の出会いが起こる。
高校時代はボランチだった長友の適性を見ぬいた明大監督・神川明彦は、長友をサイドバックにコンバート。
直後、ヘルニアを患った長友は1年近く試合に出れない日々が続いたものの、周囲の励ましもあってこれを乗り越え、見事戦列に復帰を果たす。
そして改めて取り組んだサイドバックへの転向。
結果的にこれがハマった。
大学2年でレギュラーの座を掴むと、あとは前述したサクセスストーリーの階段を、あれよあれよという速さで駆け昇っていった。
左サイドを躍動したデビュー戦
そして長友佑都は、いよいよイタリア・セリエAのピッチに立った。
長友が今シーズンから移籍したACチェゼーナは、20年ぶりにセリエA復帰を果たしたチームで、これまで大きなタイトルもない。
ホームタウンのチェゼーナも人口 10万人に満たない地方都市という、典型的なプロビンチャ(地方チーム)である。
長友はそのチェゼーナのレギュラーとして、開幕戦に臨んだ。
相手は昨シーズン2位の強豪、ASローマ。
まさに長友が望んでいた「世界レベル」との対戦が、いきなり実現した格好である。
そして長友は、前半から躍動した。
左サイドバックに入った長友は、ディフェンス時にはジェレミー・メネースやミルコ・ブチニッチ、オフェンス時にはマルコ・カセッティといった国際レベルの選手たちとマッチアップ。
彼らに引けを取らない好プレーを見せていた。
特に目を引いたのがオーバーラップである。
長友は早い時間帯から、精力的なオーバーラップで何度も前線まで駆け上がる。
前半にはDFラインの裏に抜け出して、あわやゴールかという惜しいシュートを放つなど、チェゼーナの攻撃のアクセントとして、確かな存在感を見せていた。
ディフェンスでも1対1やカバーリングで落ち着いたプレーを披露し、後半 64分にはトイメンのメネースを早々に交代へと追い込んだ。
ただ、このメネースに代わって登場した曲者ウインガー、ロドリゴ・タッディに、長友は少々手を焼くことになる。
タッディは、ローマの監督ラニエリから、長友対策の秘策を伝授されていた。
タッディはスピードのある長友に真っ向勝負を仕掛けず、長友がマークにつききる前にアーリークロスを上げる戦法をとってくる。
この奇策への対応に長友は戸惑い、タッディ投入以降、長友のサイドから何度かの危ない場面を作られてしまう。
しかしこのピンチも、ベテランGK、フランチェスコ・アントニオーリのスーパーセーブなどもあって何とか切り抜けたチェゼーナ。
結局 90分を無失点で乗り切って、アウェーの強豪ローマ戦で、勝利にも等しい勝ち点1を手に入れたのである。
金星とも言っていい結果を残したチェゼーナ。
その殊勲のディフェンス陣の一員として、長友も間違いなくこの好結果に貢献したと言えるだろう。
後半はヒヤリとさせられる場面もあったけれども、セリエAデビュー戦としては、充分に合格点を付けられる内容だったのではないだろうか。
「不可能を可能にする」奇跡の男
僕も最近知ったのだけど、長友佑都は祖父が競輪の元スター選手で、親戚筋に競輪の名選手が何人もいるそうだ。
そう考えると、あの日本人離れした脚力にも納得がいく。
そして実は長友自身、高校卒業時には大学でサッカーを続けるか、サッカーを辞めて競輪学校に入るかを真剣に悩んだ時期もあるらしい。
このエピソードに限らず、長友佑都がサッカーから離れそうになったタイミングは、これまで何度となく訪れていた。
もし中学時代に井上博に出会っていなかったら。
もし大学に進まず、競輪の世界に進んでいたら。
もし大学でサイドバックにコンバートされていなかったら。
もし1年間のリハビリ生活で、心が折れてしまっていたら。
いまの長友佑都はここに居なかった。
しかしそのたびに彼は奇跡的な出会いを果たし、まるで運命に吸い寄せられているかのように、シンデレラストーリーを実現させていったのである。
そこに僕は猛烈な「強運」を感じてならない。
ただしその強運は、単なる偶然ではないような気もする。
長友佑都のこれまで積み上げてきた努力。
そして周囲の人達に愛される、明るく素直なキャラクターが、彼の周りに人々を引き寄せたのではないか。
言い換えれば長友は、自身の人間性に惹かれて集まってきた人々に助けられて、ここまで昇りつめて来たのだとも言えるような気がする。
チェゼーナに渡る前のFC東京退団セレモニーで、長友佑都は
「世界一のサイドバックになって、またここに戻ってきたい」
と語った。
現在世界最高のサイドバックは、インテル所属のブラジル代表、マイコンだと言われている。
異次元のパワーとスピードを兼備した、フィジカルモンスターである。
長友が世界一の選手になるためには、マイコンのレベルに達する必要があるわけだ。
それはもちろん容易なことではないだろう。
しかし長友佑都は、それを不可能だとは思っていないはずである。
やる前から不可能だと考えてしまうような人間だったら、そもそも長友はいま、イタリアにいなかった。
長友佑都の人生、それは「不可能を可能にすること」。
その「奇跡」と常にとなり合わせの人生を、長友佑都はこれまでもずっと、歩んできたはずなのだから。
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