試練に挑む「反骨のベビーフェイス」、内田篤人/UEFAチャンピオンズリーグ@シャルケ04 2-0 SLベンフィカ


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「ベビーフェイス」という言葉がある。

直訳すると「童顔」という意味になるんだけど、ここから転じて「悪役」に対する “善玉” という意味でも使われる英語のスラングだ。

そしていま、日本のサッカー界で “ベビーフェイス” という言葉が一番似合う選手は、内田篤人になるだろう。

マイペースなサッカー界のアイドル、内田篤人

ちょっと前に、かなり久しぶりに雑誌『サッカーai』を立ち読みしたことがある。
昔から選手をアイドル視する傾向があるこの「サッカーai」だけど、しばらくぶりに読んでみて驚いた。
なんと今ではほとんど、内田篤人の専門誌みたいになっているじゃないか!

それからもちょくちょく本屋でサッカーaiを見かけたけれども、ほぼ毎月ガチで内田が表紙(または表紙のどこか)に載っているような気がする。

まさに『月刊 内田篤人』状態(正確には隔月らしいですけど)。
ウッチーがどれだけファン、特に女性からの支持を受けているのかがよく分かる。

しかし男の僕から見ても、内田くんは確かにかわいい。
別にそのケがあるわけじゃないけれど、見れば見るほど端正な顔立ちをしているなぁと思う。

しかもサッカーをやらせれば、J屈指の名門・鹿島アントラーズで、チーム史上初の「高卒新人開幕スタメン」を達成し、今では日本代表の常連。
さらにスラリとした体躯に、50メートル走5秒台の俊足。そして地域屈指の進学校の清水東高校出身で、性格も穏やか、それでいてベビーフェイスで笑顔が可愛いとくれば、これはかつての宮本ツネ様以来の「いったい何拍子そろっているのかわからない」スーパーアイドルだとみなされるのも納得だろう。

内田篤人がドイツに移籍する時に、色々とテレビや雑誌で特集が組まれていて、僕もそのうちのいくつかに目を通してみた。

そこから浮かんできた人間・内田篤人像は「とにかくマイペースな人」である。

そのプレーとルックスで注目を集める存在でありながら、本人はいたって飄々とした姿勢を崩さない。

内田はもともと、海外志向は全くなかったらしい。

そもそも海外サッカー自体に興味がなく、テレビでもほとんど海外の試合は観なかったそうだ。
なんせいま所属するシャルケ04も、オファーを受けるまでは、その名前すら知らなかったくらいである。

そんな内田の心境に変化が生じたのは、北京オリンピックでの惨敗がきっかけだった。

グループリーグ3試合で3連敗。
この北京での苦い経験が、無欲だった内田篤人に世界との差を実感させ、成長への意欲を植えつける。

「このままじゃヤバい」。

さらなる成長のため、海外移籍を視野に入れ始めた内田篤人。
そんな中で届いたのが、シャルケ04からのオファーだったのだ。

そして海外サッカー音痴だった内田篤人は気がつけば、世界のサッカーシーンの最高峰、UEFAチャンピオンズリーグの舞台に立っていた。

ホロ苦い思い出となったチャンピオンズリーグデビュー戦

チャンピオンズリーグ、グループリーグの第2節ベンフィカ戦。

今シーズンは怪我で出遅れた内田篤人も、ついに戦列復帰を果たし、ブンデスリーガに続いてチャンピオンズリーグでもデビューを果たす。
ホームでのこの重要な試合で、内田は右サイドバックとして先発出場した。

しかし立ち上がり、シャルケは落ち着きのない戦いぶりで、何度もピンチを招いてしまう。

その原因が、シャルケの若い DFラインにあるのは明白だった。

とりわけ新加入で復帰明けの内田篤人と、弱冠 18歳のギリシャ人センターバック、キリアコス・パパドプーロスで組む右サイドが不安定な立ち上がりを見せてしまい、このサイドから序盤に何度か危ない場面を作られる。

しかしそこはホームのヴェルティンス・アレーナ。

大観衆の後押しを受けたシャルケは徐々に落ち着きを取り戻すと、次第に攻勢に転じていった。

とりわけこの日は右 MFのジェフェルソン・ファルファンが光っていた。
このペルー代表のアタッカーは、抜群の運動量で右に左に顔を出しては、縦横無尽の活躍。

このファルファンの精力的な働きで、ラウル・ゴンザレス、クラース・ヤン・フンテラールらが絡む前線が活性化されていった。

しかしそれだけに、ファルファンの後方に控える内田篤人には、なかなか得意の攻撃参加を見せる機会が訪れない。

何度かはいいクロスや突破を見せる場面もあったけれども、この日の内田は最後まで、決定的な仕事には絡めずじまいだった。

逆に守備面ではベンフィカのエース、ハビエル・サビオラをうまく抑えることもあった反面、相変わらず後手を踏む場面も目立ち、何度かミスを冒してはピンチの起点にもなってしまう。

なかなかピリっとしたプレーを見せられない内田篤人。

後半には自ら突破を試みた場面でボールを奪われ、これを取り返しにいった際にファウルを冒してイエローカードも受けてしまった。

けっきょくこのプレーの直後、58分に内田篤人は交代でピッチから退くことに。

内田にとってはブンデスリーガ初戦に続き、このチャンピオンズリーグでのデビュー戦もホロ苦い思い出となってしまったようだ。

試合はこの後、この日は大活躍を見せていたファルファンが先制点を挙げる。
続いてフンテラールが追加点をゲットして、シャルケが貴重な勝ち点3を手に入れた。

内田篤人が隠し持った「反骨精神」

内田本人は試合後、「出来はまあ普通です。交代させられたのは、ミスが多かったからでしょ」。
と、相変わらず飄々と試合を振り返っていた。

どこまでもマイペースな姿勢を崩さないように見える 22歳はしかし、その内面には一本筋の通った強さを持っている。

静岡県東部、伊豆半島の付け根の小さな町、函南町で生まれ育った内田篤人は、中学時代までは全く無名のチームでプレーする、全く無名のいち選手だった。

そんな内田篤人に転機が訪れたのは高校進学の時。
より高いレベルでのプレーを目指して内田は、高校サッカーの名門・清水東高校の門を叩く。

実家から清水東までは、片道およそ1時間半の道のり。
この遠路を内田篤人は通い続けては、毎日朝から晩までサッカーに励んだ。

高校時代の恩師・梅田和男監督によれば、内田は当初から決して目立つ存在でもなければ、大成するような選手にも見えなかったという。

しかし内田篤人には、「スピード」という天性の武器があった。

その武器をもとに頭角を現すと、内田は早生まれだったことも幸いして、トレセンを経て U-16の代表メンバーに選出される。

ここから内田篤人のシンデレラストーリーは始まった。

高校卒業後は鹿島アントラーズとプロ契約、Jリーグ3連覇の全てにレギュラーとして貢献。
代表では U-20として U-20ワールドカップ、U-23として北京オリンピックにレギュラーとして出場。
その後A代表にも定着し、出場はなかったもののワールドカップのメンバーにも選ばれた。

そして今シーズンはついに、ドイツへと活躍の舞台を移す。

運や周りの環境に恵まれた部分もあっただろう。

しかし順風満帆に見える内田篤人のサッカー人生も、全ては「清水東に入学する」という決断がなくては始まらなかった。

内田篤人の「成長したい」と願う気持ちと強い意志が、今の内田を形作っているのは間違いないだろう。

内田篤人にとって、ドイツでの挑戦は簡単なものにはならないはずだ。

順調すぎるほどのキャリアを歩んできた内田にとって、今は初めて迎えた試練の時かもしれない。

しかし長谷部誠を鍛え上げたフェリックス・マガト監督のもとで成長したい、との強い意志を持って、内田篤人は海を渡った。

そんな内田なら、この壁を乗り越えてくれるのではないかと僕は期待する。

その童顔の裏に、芯の強さを隠し持った「反骨のベビーフェイス」、内田篤人。

彼はまだ、その大人への階段を、昇り始めたばかりなのだ。

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