アルベルト・ザッケローニの見つけた “理想郷”/AFCアジアカップ@日本代表 1-0 オーストラリア代表

Mt. Fuji.Mt. Fuji. / skyseeker

かつて 1980年代ごろまでは、ワールドカップはおろか、アジアカップにすら出場したことのない、アジアでも弱小だった国。

それが日本だった。

そんな日本サッカーが、Jリーグが誕生したことにより、劇的に生まれ変わったのは 1990年代。

「プロ化」と言う大きな波は代表の強化にも波及して、ハンス・オフト監督のもと、カズ、ラモス瑠偉、北澤豪らのスター選手を擁した日本代表は 1992年アジアカップで、2度目の出場にして初優勝を飾る。

当時、まだサッカーに興味をもつ直前だった僕はこの大会を観戦していなかったのだけれども、連日報道される日本の快進撃のニュースを見て、何だかすごく盛り上がってるな、という印象は感じとっていた。

日本がその当時ワールドカップに出場すらしたことがなく、アジアのチャンピオンになったことが歴史的偉業だったことを知ったのは、それからちょっと経ってからのことだった。

4度目の頂点に輝いたザック・ジャパン

初のアジアのタイトルを手にして以来、日本はアジア屈指の強豪チームへと、劇的な変貌を遂げていった。

初優勝から8年後となった 2000年大会のアジアカップ。

名波浩・中村俊輔たちが引っ張ったトルシエ・ジャパンは開幕から圧倒的な強さを見せて、2度目の王者に輝く。

そして続く 2004年大会でも、PK戦を含む難しい試合を僅差で勝利し続けたジーコ・ジャパンは決勝で開催国の中国を破り、完全アウェーの中、3度目の王座に就いた。

それから7年。

ザック・ジャパンはアジアカップ新記録となる4度目の優勝カップを手にする。

これまでのアジアカップはと言えば、全盛期の中田英寿をはじめとする海外組を招集していなかったりと、日本にとっては必ずしもベストメンバーで臨んできた大会ではない。

それに比べると今回のアジアカップ 2011は、本田圭佑、香川真司らを呼び寄せ、怪我人以外はベストメンバーを組んで挑んだ大会だった。

その点ではこれまでの大会よりも有利だったと言えるのかもしれない。

しかし、経済成長をバックボーンに急成長を見せている中東勢や中央アジア勢が、以前はサウジアラビアやイランを除いてはそれほど脅威でなかったこと、オーストラリアが AFC未加盟であったことを考えれば、対戦国のレベルも飛躍的に上がってきたと言っていい。

その意味ではこの優勝は、史上最もハイレベルな大会を制した、価値あるものだったと僕は思っている。

強烈だったオーストラリアの圧力

ファイナルの相手、オーストラリアにとっては、「まさか」の敗戦だったのかもしれない。

この大会で日本は3度の「先制点を奪われて、追いつく」試合を経験しているけれども、それらの試合でも内容で負けていたわけではなかった。

しかしこのオーストラリア戦は、日本が初めて内容で劣勢に立たされたゲームとなったのである。

オーストラリアはとにかくプレッシャーが速く、組織立っていた。

もともと大柄で当たりに強い選手たちが揃っているところに、浦和レッズで 07年 AFCチャンピオンズリーグを制した名将、ホルガー・オジェックが、当時のレッズさながらの組織的なディフェンスを植えつけ、まるで要塞のように堅牢な守備の壁を築く。

日本は中盤の深いエリアでこそボールを回せるものの、それをバイタルエリアより前になかなか運ぶことができず、逆にそこからオーストラリアに鋭いカウンターを浴びた。

オーストラリアの攻撃は、主に右サイドバックのルーク・ウィルクシャーを起点に、長く正確なクロスを前線のティム・ケーヒル、ハリー・キューウェルに合わせてくるという至ってシンプルなもの。

しかしこの単純明快な戦術が、体格で劣る日本にとっては極めて不利に働いた。

ケーヒル、キューウェルもそれぞれ 178cm、180cmと取り立てて大柄な選手ではない。

しかしガッチリとした胸板、高い跳躍力を誇り、特にケーヒルはこれまでの対戦で何度も日本を窮地に陥れたそのポジショニングの嗅覚で、日本の急所を再三突いてくる。

日本は主に上背の無いセンターバックの今野泰幸が狙われ、ここから何度となくチャンスを創られてしまった。

粘りの戦いを見せるザック・ジャパン

それでも何とか無失点で前半をしのいだ日本。

しかし守備は早急な修正を迫られる状態で、攻撃に関しても、前半はほとんど糸口を見つけられていなかったと言っていい。

そこでザッケローニは、後半早々に最初のカードを切ってくる。

この日の日本のアタックは、韓国戦の負傷で離脱した香川真司の穴を、どうしても感じさせてしまう部分があったことは否めない。

そして同時に、ロングボールに苦しみ続けていたディフェンスラインにもメスを入れる必要があった。

そこでザックが切ったカードは、大方の予想を裏切るものだったように思う。

56分、投入された選手は岩政大樹。

しかし交代は同じポジションの今野泰幸とではなく、藤本淳吾とだったのである。

ザッケローニはこの交代で、香川真司の代役としてはやや物足りない動きだった藤本を下げ、センターバックに長身の岩政を入れてクロス対策をとらせる。

そして今野を左サイドバックへとスライドさせて、相手の起点となっていた左サイドの守備の安定化を図るとともに、長友佑都を左MFの位置に上げて、サイド攻撃を活性化させた。

このたった一つの交代で、攻撃と守備、その両面での課題をクリアしてしまったのである。

このベンチワークで、日本の好守のバランスは修正の兆しを見せる。

DFラインは前半ほどは空中戦で圧倒されなくなり、長友はそのスピードを活かした突破力で、左サイドの攻撃を活性化させた。

ただし、それでもオーストラリアとの形勢を逆転させたとは言えず、勝負は相変わらずオーストラリア優勢で進んでいく。

その中で日本は、何度かオーストラリアに決定的なピンチを与えてしまうのである。

ところが、この日の日本は粘り強かった。

このピンチを凌いだ最高の立役者は、ゴールキーパーの川島永嗣。

準決勝の韓国戦で神がかり的な PKセーブを見せた川島は、その勢いをそのままに、この決勝戦でも驚異的な活躍を見せる。

ハリー・キューウェルとの1対1を含む数回の決定機でスーパーセーブを見せて、川島の大活躍で日本は何とか失点を免れることができたのである。

そしてそんな守備陣の踏ん張りもあって、試合は2試合連続の延長戦へと突入していった。

ヒーローが放ったボレーシュート

この日の日本に、オーストラリアを崩す決定的な策があったわけではなかった。

オーストラリアのディフェンスはほぼ完璧と言っていいほどのもので、平均年齢が 25.8歳の日本に対してオーストラリアは 29.9歳と、チームとしての成熟度でもオーストラリアが上回っていたと感じられた。

ただし、オーストラリアの唯一と言ってもいい急所の存在を、日本はつかんでいた。

それは右サイドバック。

正確なクロスで何度も攻撃の起点となっていたルーク・ウィルクシャーは本来はボランチの選手で、ディフェンスはそれほど得意とは言えない。

つまりこの右サイドは、オーストラリアにとっては諸刃の剣とも言えた。

そして日本の喉元を牽制し続けたこの刃が、ついに折れる瞬間がやってくる。

時間は延長も後半に入り、4分を過ぎた頃だった。

左サイドでボールを受けた長友佑都が、マッチアップしたウィルクシャーに1対1を仕掛ける。

1度タテに行くと見せかけて、退き、そこから再びタテに突っかけた長友佑都。

ここまで 110分近くを戦い、オーストラリアも疲労はピークに達していた。
この場面で見せたドリブル突破。

長友のこの切り返しが絵に描いたように決まって、ウィルクシャーを一瞬でぶっちぎった長友は、競馬にたとえるなら1〜2馬身ほどの差をつけて左サイドを独走する。

そしてその長友に対し、カバーリングに入ったオーストラリアの左サイドバック、デビッド・カーニーは猛然とダッシュをして、ニアのコースを消しに入った。

しかし長友の放ったクロスはその裏をかき、カーニーの頭上を越えて、オーストラリアのゴール前にポッカリと空いた空間へと吸い込まれていく。

そしてそのスペースにひとり立っていた選手が、李忠成。

前田遼一に代わって延長から投入されたセンターフォワードは、このとき直感的に、トラップではなくボレーシュートを選択する。

一瞬、時が止まったかのように思えた。

次の瞬間、李忠成が完璧なフォームで放ったボレーがボールの真芯を叩き、ゴール左隅の枠を捉える。

アジアナンバーワンとも言われるゴールキーパー、マーク・シュウォーツァーが一歩も動けずに見送ったボールがゴールネットを揺らした瞬間、日本の勝利を呼ぶ決勝点が、スコアボードに刻まれたのである。

ザック・ジャパン、史上最高の代表チームへ

1992年の初優勝から数えて、わずか 19年間、6度の大会で4度目の優勝。

急成長を見せた我らが日本代表は、大会史上最多優勝記録を更新し、名実ともにアジアの最強チームとなった。

僕は 92年の代表チームの戦いを見ていないと書いたけれども、その翌年のワールドカップ予選は全試合を観戦し、いまでも鮮明な記憶として残っている。

僕はこれまで、「歴代の代表チームでどのチームが一番好きか?」というような事を聞かれた時には、必ず「ドーハの時の代表だ」と答えていた。

この時の代表チームは、その後の代表チームと比べたら、技術レベルは高いものとは言えなかったのかもしれない。

しかし、このチームはそれ以上に「記憶に残る」チームだった。

カズ、ラモス瑠偉、中山雅史、柱谷哲二、北澤豪、福田正博、井原正巳など、熱いハートを持った選手たちが揃ったこの時の代表チームの戦いぶりは多くの感動を呼ぶもので、当時まだ 10代だった僕の胸にも、強烈な印象を残している。

98年のチームも 2002年のチームも、2010年のチームも好きだったけれども、やっぱり最高だったのは 93年、『ドーハの悲劇』で散ったチームである。

しかしもしかしたらザック・ジャパンは、僕にとって初めて、ドーハのチームに匹敵するチームになるかもしれない。

オーストラリアとのファイナルでの勝利の後、監督・選手たちは異口同音に、アジアカップでの勝因を「団結力」だと口にした。

個性的で自己主張の激しい選手たちが揃う代表チームは、時として 96年のアトランタオリンピックや 06年のドイツワールドカップの時のように、内部崩壊を起こしてしまうことがある。

もちろん、今回の代表も負けず劣らずの個性派集団ではあった。

しかし同時に、本田圭佑や長谷部誠、遠藤保仁、長友佑都、岡崎慎司、香川真司ら、若くとも誠実で成熟したメンタルを持った、大人の集団でもあったのだ。

そんなメンバーだったからこそ、このチームは個性を保ちながらも、ひとつにまとまることができたのではないか。

そしてそれが実現したのは、スキルと同時に選手のメンタル、人間性も重視して代表を選抜した、ザッケローニ監督の功績でもある。

韓国戦の勝利の後のヒーローインタビューで、「監督は僕に自信を持たせてくれている」と語った本田圭佑は、優勝を決めた試合の後も「熱さの中に優しさがある。それで自信を持ってピッチに入れる」と、指揮官に最大級の信頼を示した。

選手たちに慕われ、マスコミからの信用も得て、日本中のファンを熱狂の渦に巻き込んだザッケローニ監督。

決勝オーストラリア戦のテレビ視聴率は、深夜0時からのキックオフだったにも関わらず、なんと 33%超を記録。

もはや常識的にはあり得ない数字である。

「結果」と「人気」の両面で、ザック・ジャパンは史上最高の代表チームになる可能性を秘めている。

僕はザッケローニの日本代表チームが、これほどまでに国民の支持を集め、サッカー人気に火をつけてくれたことが嬉しい。

サッカーファンとして、彼らに言える言葉は、ただ「ありがとう」のひと言である。

そんなザッケローニ監督も、日本協会との契約は2年だと伝えられている。

欧州のトップクラブで活躍してきた監督にとって、極東の代表チームで4年間を過ごすことは、自身のキャリアにとってリスクになるだろうことは理解できる。

縁もゆかりもない日本にやってきて代表監督に就任したばかりのザッケローニが、そのリスクに縛られない契約を結んだことは、ある意味で当然の選択だとも言えるだろう。

しかし僕は、多くの日本のサッカーファンと同じように、ザック・ジャパンがブラジルワールドカップで戦う姿を見たいと願っている。

これほど素晴らしい戦いぶりを見せてアジアのチャンピオンとなり、そしてまだまだ若く伸びしろのある代表チームが、世界の舞台でどこまでやれるのかをぜひ見てみたいと思うのだ。

そしてこの素晴らしい選手たち、ファンたちと巡り会ったことで、ザックの心境にも変化が生じ始めているようだ。

優勝から一夜明けた会見で、ザッケローニ監督は「日本代表の監督になれたこと、今回の選手たちの監督になれたことを誇りに思う」と勝利を振り返った。

そして、
「ここにいられる間は、いようと思っています。」
と語ったとも伝えられている。

欧州で苦しい時期を迎えていた名将にとっても、極東の島国は理想郷となったのだろうか。

いずれにせよアルベルト・ザッケローニは、日本のファン、マスコミ、関係者から、ワールドカップ出場を逃しでもしない限りは揺るがないほどの、強力な信頼を得たことは間違いない。

そして、いちファンである僕も、心から願っている。

ザック・ジャパンが再び一致団結し、ブラジルの地で新たな「伝説」を創る、その姿を目のあたりにすることを。

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