美しいサッカーとは何だろうか。
テクニカルなサッカー。攻撃的なサッカー。組織的なサッカー。
そこには色々な解釈があるだろう。
そもそも美しいものとは何だろうか。
崇高な芸術なのか、計算された機能美なのか、それとも自然が織りなすありのままの美なのか。
人は美しいものに憧れ、美しいものを追い求めようとする。
しかし、美しさのあり方は一つではない。
醜は美であり、美は醜である。
そして、それらが混在する世界そのものこそが最も美しいのではないかと、僕はそんな事を考えたりもする。
FCバルセロナ、サッカーチームの一つの究極形
美しいサッカーという問いに、一つの答えを出したチームがある。
FCバルセロナ。
言わずと知れた昨年度の世界チャンピオン。
かつて90年代に指揮をとったヨハン・クライフによって、バルセロナにはサッカーの美学が植え付けられた。
「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え。」
「ボールを回せ、ボールは汗をかかない。」
「4-5の敗北は、1-0の勝利に勝る。」
クライフの下で初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成したバルセロナは、2000年代に入ってからも、フランク・ライカールト、ジョゼップ・グアルディオラといったクライフの薫陶を受けた指揮官たちによって、その伝統が受け継がれた。
そして世界で最も美しいサッカースタイルを構築したバルセロナは、両監督の下でさらに、2度のヨーロッパチャンピオンに輝いたのである。
バルセロナのサッカーは人々を魅了する。
ワンタッチのパスを次々と繋ぐ流麗なパスワーク、それがゴール前の密集地帯でも止めどなく続けられる。
昨年のバルサのサッカーを観たとき、僕は大げさでなく、我が目を疑った。
ワールドクラスの相手DFたちから受けるハイプレッシャーの中で、傍観している僕ですら目で追うのがやっとなほどの高速パスワークをワンタッチで次々と繋いでいくバルセロナ。
それも何本も、何本も。
そして相手DF陣が完全に決壊した時、その急所にフィニッシャーが入り込み、ゴールを奪うのである。
人間にこんな芸当が可能なのか。
僕は本気でそう思った。
もはや芸術、もしくはそれ以上の完成度に達した感のあるバルセロナのサッカーは、現在は世界中のチームからお手本とされる、サッカーチームの一つの究極形となっている。
バルセロナにかかった重圧
しかし、この日のバルセロナはいつもと違っていた。
最低2点、失点した場合は3点以上が必要になるバルサは、立ち上がりから明らかに動きが固かった。
普段は無意識にできているようなパスワークを、一瞬考えながらやっているようにも見えた。
そしてその一瞬の判断の迷いが全体の歯車を狂わせ、いつもの華麗はパスワークは完全に姿をくらましてしまった。
個々のプレーも精彩を欠いた。
リオネル・メッシは1stレグに比べればチャンスに絡めていたものの、それでもやはり激しいマークを受けて思うようにプレーをさせてもらえない。
ズラタン・イブラヒモビッチは全く効果的なプレーを見せられず、ほとんどピッチにいないも同然のような出来だった。
ペドロ・ロドリゲスとダニエル・アウベスのサイドアタックも、いつもと比べてクロスの精度を著しく欠いていた。
そして僕が一番驚いたのは、シャビ・エルナンデスである。
普段であればほとんどミスなく正確なゲームメイクを遂行するシャビが、この試合ではイージーなパスミスを何度も見せていた。
それだけ、この試合はバルセロナに大きな重圧を与えていたということだろうか。
そして、ジョゼ・モウリーニョ率いるインテルが、そんなバルサの前にぶ厚い壁となって立ちはだかったのである。
インテル、高潔なまでの守備的戦術
この日のインテルは徹底していた。
イタリアチャンピオンの青と黒の軍団は、執拗なまでに守備に徹した。
前半28分にチアーゴ・モッタが退場となってからは、FWのサミュエル・エトーやディエゴ・ミリートまでもが、まるでサイドバックのようなポジションをとり、全員が自陣でディフェンスに奔走したのである。
力の差がある対戦の場合、実力下位チームが「守って・守って・カウンター」という戦術を取ることは珍しくない。
だがこの日のインテルは、守って・守って・カウンターどころか、「守って・守って・守った」のである。
10人になってからはもはや攻撃を完全に放棄して、ただひたすら守備に徹する戦術を取ったのだ。
このレベルの試合で、ここまで守備に徹する戦術は極めて異例である。
インテルも世界に名だたるビッグクラブだ。
プライドもあるだろうし、いくらバルセロナが最強チームだからと言っても、普通は多少は攻めに回りたい気持ちが出てくるものではないだろうか。
しかしこの日のインテルは、そういった心の隙間を全て断ち切った。
バルサの力を認め、徹底的に守備を固めることによって、バルサの美しさを完全に封じ込んだのである。
バルセロナがいくらパスを回しても、その前には常にインテルのDF陣が待ち構えていた。
バルサのポゼッション率は驚異的な数値をたたき出したものの、最後の堅陣を割ることができず、決定的チャンスはほとんど作ることができない。
苦し紛れに放つミドルシュートもインテルの壁によせられ、ゴールマウスにシュートが飛ぶことも稀だった。
そしてジェラール・ピケの1点も虚しく、2点目に手の届かなかったバルセロナが決勝進出の夢を絶たれ、チャンピオンズリーグファイナリストの切符は、インテル・ミラノが手にすることとなったのである。
サッカーの美学を見せたインテル・ミラノ
美しいものとは何だろうか。
僕個人の中では、それに対する答えが存在する。
僕が一番美しいと感じるもの、それは人間の「ハート」である。
「情熱」や「スピリッツ」と言い換えてもいい。
人間が根源に持つ向上心、闘争心、意欲、情熱など、それらほど美しいものはないと僕は感じている。
こういう考え方は暑苦しく思われる場合もあるだろう。
しかし、それでも僕はやはりそう思うのだ。
そして僕がサッカーに求めているものも、その一番は技術でも戦術でもフィジカルでもなく、選手たちのハートとハートがぶつかり合う時に生まれる感動、人間たちの生み出すドラマなのである。
この日のインテルは超守備的だった。
では、インテルはつまらないサッカーをしたのだろうか?
サッカースタイルだけで考えれば、それはイエスだろう。
ではインテルは美しくないチームだったのか?
僕はそうは思わない。
確かに今日のインテルは極めて守備的で不細工な、とても美しいとは言えないサッカーを遂行した。
しかし、恥も外聞もかなぐり捨てて自分たちのタスクを全うしたその姿、彼らがこの日に見せたファイティングスピリッツは、この上なく美しいものだったと僕は感じた。
インテルが守備的だったとか、終了間際に取り消されたボージャンのゴールはハンドでは無かったとか、そういう批判はいくらでもできるだろう。
しかし、それはサッカーの本質ではない。
もっとも大切なのは、両チームが勝利のためにどれだけのことをやったのかということである。
モウリーニョは試合後、「我々は血を流した」と語った。
命を賭けるほどの覚悟で試合に臨んだということである。
答えは非常にシンプルだ。
重要なのはそこであり、結果は準備と実行と、少しの運で決まる。
そして、勝つために100%以上の力を出し尽くして、彼らは勝利した。
バルセロナファンである僕にとって、この敗戦が大きな失望を生むものだったことに違いはない。
しかし、僕はこの日のインテルの勝利には惜しみなく拍手を送りたい。
バルサの選手たちやグアルディオラ監督がそうしたように。
それくらいに、今日のインテルは美しかった。
美しいサッカーとは何か
バルセロナという「巨人」を倒し、いよいよファイナルへの扉をこじ開けたインテル。
僕はそのインテルの姿に、バルセロナとは全く違った形のサッカーの美しさを見た。
たとえ小学生のゲームであっても、選手たちが全力を出しきってプレーをする姿には感動を覚える、それがサッカーというものだ。
そしてインテルは、このチャンピオンズリーグ準決勝という大舞台で、誰よりも泥臭く、誰よりもハートのこもったゲームをやりきったのである。
それはまさにファイナリストにふさわしい、力強く美しい勝利者の姿であった。
「美しいサッカー」の答えは一つではない。
しかし、この日のインテルは、その答えの一つを僕たちに示してくれた。
ヨハン・クライフの言葉をもう一つ紹介したい。
「本当に素晴らしいフットボールは、国境を越え、自分の属する国籍までも忘れさせ、人々を熱狂させることだ。」
勝利のために全力を尽くす、選手たちのハートとハートのぶつかり合い。
そこに国境はない。宗教もない。
ただただ熱狂があるだけだ。
そしてそれがあるからこそ、僕はもう何年も、サッカーというドラマに魅了され続けているのである。
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